愛犬がいた人生

先日、17年間一緒に暮らしてきた
愛犬が亡くなりました。
名前は、タルトといいます。
私が初めて迎えた犬であり、
おそらく、これから先、
もう犬を飼うことはないであろう
最初で最後の犬です。
亡くなってからも、
時間はこれまでと同じように進んでいます。
朝が来て、家の中のことをして、
仕事をして、夜になる。
暮らしの形は続いているのに、
いつもそこにあった姿だけがありません。
長い間、一緒にいることがあまりにも自然でした。
眠っている姿も、歩く音も、こちらを見る目も、
毎日の中にある、ごく普通のものでした。
特別なものとして見つめることもなく、
そこにいることを前提に
暮らしていたのだと思います。
けれど今は、
その何でもなかった時間が
どれほど大切なものだったのかを思います。
17年の間には、いろいろな日がありました。
元気に走っていた頃もあり、
少しずつ年を重ね、
できないことが増えていく姿を見守った日々もありました。
食べてくれたことにほっとした日。
体調の変化に心配が止まらなかった日。
予定を立てるときも、
まず体調や留守番の時間を考えることが、
いつの間にか当たり前になっていました。
それを大変だったと言えば、
大変だったのかもしれません。
けれど、今振り返っても、
そのために使った時間を惜しいとは思わなかった。
もっと自由に出かけられたかもしれない。
他のことに時間を使えたかもしれない。
でも私は、そばにいることを選んできました。
それが、私の暮らしでした。
犬の一生は、
人の時間から見れば短いものです。
けれど、タルトにとっては、
生まれてから亡くなるまでの
ただ一度の一生でした。
その一生のほとんどを
私のいる家で過ごしたこと。
私の声を聞き、私の手に触れられ、
同じ家の中で朝を迎え、夜を過ごしたこと。
そして私は、
この子が生まれてすぐの頃から年を重ね、
命を終えるまでを見ていました。
ひとつの命の始まりから終わりまでが、
私の人生の中にあった。
今は、そのことを静かに思います。
いなくなった寂しさは、
何か別のもので埋められるものではありません。
けれど、一緒に過ごした時間まで
なくなったわけではありません。
楽しかった日も、
心配した日も、
何でもなかった日も、
すべて私の人生の中に残っています。
もっとしてあげられることがあったのではないか。
あのとき、ほかの選択もあったのではないか。
考え始めれば、
答えのないことはいくつもあります。
それでも、ひとつだけ
確かに思えることがあります。
私は、タルトの一生を
自分の人生の中に置くことができて、幸せでした。
私のもとへ来て、ここで生きてくれたこと。
毎日の中にいてくれたこと。
17年という長い時間を、一緒に過ごせたこと。
その事実は、悲しみとは別の場所で、
静かに私の中にあります。
おそらく私は、もう犬を飼うことはないと思います。
それは、もう同じような思いをしたくないから
というだけではなく、
この一生が、私の中でひとつの完結した
大切な時間になっているからなのかもしれません。
いない日々は、これからも続いていきます。
タルトがいた人生として、
これからも続いていくのだと思います。
投稿者プロフィール

最新の記事
日常2026年7月27日愛犬がいた人生
日常2026年7月13日同じような毎日の中で
家族2026年7月9日子どもの可能性を信じるということ
日常2026年7月6日思いどおりにいかない日を整える

